美食不孤單
孤独のグルメをテレビでやってるのですが、これを観てると日本語の表現力のスゴさがよくわかります。中国語の字幕が付くのですが、五郎さんの独り言(というより心の声ですが)のバリエーションが実にシンプルに陳腐化されてしまうのです。これ、日本語わからずに中国語字幕だけで観たら全然面白くないだろうな、と思いながら観てます。
別に中国語をディスるわけではありません。基本的に私は中国語が大好きです。ですが、言語として日本語は優れていると思います。これは日本が好きだとか日本スゴい、とかいう話ではなくてシンプルに言語として日本語は表現力が豊かだと思うのです。
例えば、
「彼が昨日家に来てくれた。」
「彼に昨日家に来られた。」
という二つの文を比較したとき、どちらが嬉しくてどちらが迷惑かわかるでしょう。短いこの文でそれを言い分けることができるというのはスゴいと思いませんか。
こういうと、以前友人の中国人(日中通訳)に言われたことがあります。
「イヤならイヤとはっきり言えばイイ。こういう曖昧なところが日本人の悪いところ。」
いえ、私はシンプルに言語としての日本語が優れているといいたいだけで、文化や習慣の話をしているのではありません。
例えば、強調するときは繰り返したり、声を大きくしたり、オノマトペにもならない擬音語を多用するとか(ぐわーっと行ったら、わーっとなってごっっうたいへんやってん。みたいな)の言語よりはとても表現力が豊かだと思うのです。
あれ、なんか関西弁をディスってるように見えますが、そうではありません。具体的には言えませんが、基本的に単語を並べるだけ、みたいな言語もありますよね。
本題に戻ると、この孤独のグルメでは例えば、注文した料理がきたときに シンプルにに
やっと来た
のときもあれば
おいでなすった
のときもあるのです。
でも、字幕はどちらも
終於來了
です。
これは仕方がないと思いますが、言い方のバリエーションがあるのって素晴らしいと思うのです。
豚の味噌焼きのことを「みそぶー」と言ったりタルタルソース好きを「タルタリスト」、鶏南蛮が来た時に「タルタルきたる」と表現したりしてもそれは翻訳によって面白さが失われてしまうのは仕方ないと思います。翻訳とはそんなものです。
もちろん、翻訳で面白さが加わることもあって、私が本当に若かったころに観た「トップガン」ではソ連のミグとドッグファイトの時に中指を立てて挑発したことを話すのに「手話で会話しました。」と訳していたのは戸田奈津子さんだったと記憶しています。
そういう意味ではホントにこの孤独のグルメは字幕だけに頼って観て面白いのかなと疑問です。